2011年3月17日木曜日

悲しい現実

日本の地震を聞いたのは、任国外旅行から帰って来る途中でした。
マジュロにあと1つ離島に停まれば、久しぶりの我が家。
2週間の旅行を一緒に過ごしたミクロネシアの隊員たちと別れを告げるために飛行機の外へ出たとき、突然日本人の客室乗務員さんから「どうやら日本で地震があったようですよ」と一言だけ教えてもらえました。

日本でまた地震。
マーシャル時間で、もうすぐ8時かそこらでした。
日が沈み、あっというまに夜になるころ、
次の島、クワジェリンにむけて飛行機は飛び立ちました。

1時間そこらで次の目的地へ到着。
機内では降りる乗客が準備をして、いざ降りようとしたところ
「マジュロへ行くお客様は、荷物をもって外へ」といった機内アナウンスが突然流れました。
日本人の私は、いきなり聞こえてくる「マジュロ」というアナウンスに理解できずにいました。
マーシャル人たちもそのときはすぐに理解できていませんでした。
偶然にもグアムから配属先のマーシャル人スタッフが乗っていたため、彼女たちと一緒に行動し外へ出て、飛行機へ戻れることをただ祈るばかりでした。

しかし、飛行機をマジュロへ離陸せず、直接ハワイへ行くことになったと待合室で私たちに伝えられました。
全員で20~30人近くのマジュロへ目指していた乗客はクワジェリンで降ろされ、どうすることもできませんでした。
待合室のテレビでは、日本の地震の様子が流されていました。
まさか、世界規模でニュースになるほど地震はひどいのか。
そう思ったとき、「ツナミ」という声も聞こえてきました。
地震による津波でマーシャルにも被害でるということが、このとき始めてきづいたことでした。

私たち日本人は、一緒に旅行していた隊員1人とマジュロに仕事目的で行こうとしていた男性の3人。
私たちは、なぜ日本がこんなことになっているのか、理解できずにいました。
きっとそれは、日本人ばかりでなく、他の人たちもきっとそうだったと思います。
テレビには激しい波のたつ海の上にたつ建物の屋上にたくさんの人たちが集まっている様子。
しかしそれは空港の様子だったようです。
とにかく、マーシャルに来る津波も心配でしたが、
なにより日本の情報がはっきり入ってこないことがより一層私を不安にさせていました。

マジュロへ行こうとしていた台湾人の旅行客は、空港スタッフに抗議し飛行機に乗らせろと言っていました。
どんなに誰かが主張したところで、もう飛行機には乗れないだろうと思いましたし、それどころではなく、不安しか私の頭にはありませんでした。

飛行機はハワイへ飛んでいき、私たちはクワジェリンで津波到達まで待機することとなりました。
クワジェリンにいても津波は来るときは来るし、どこにいても死は近くにあるもの。
私たちとコンチネンタルのスタッフは空港2階の一室に集まり、待機。
一人一人の名前と国籍を確認し、飛行機は次の定期便まで飛ばないことを説明してくれました。
そして、クワジェリンはアメリカ軍基地のため、通常アメリカ人とマーシャル人以外自由に空港外を歩き回ることができません。
しかも宿泊なんてそう簡単にできないところ。
そのため、空港スタッフとアメリカ軍兵は、隣の島イバイへ行くことを勧めてきました。
しかし、誰もイバイへ行こうとせず、みんなクワジェリンへ残ることを主張したため、次の定期便まで残ることになりました。

そこで過ごした貴重な体験はまたの機会に。


しかし、時間が経つにつれ、日本の情報がCNNニュースで伝えられました。
どんどん増える情報と映像。
避難所生活の映像も流れました。
きっと映像で観るより、もっともっと深刻な現場がそこにはあるのだと思います。
3月でも今年の3月はとても寒く雪も降っています。
マーシャルにいると寒い冬の感覚が鈍くなってしまいましたが、それでも冬はとてもつらいものだったことを覚えています。
しかし、私の知ってる福岡の冬より、東北の冬はもっともーっと厳しいものでしょう。
冷たい体育館のような避難所やちゃんと外と壁のない場所へ避難している人びとも多くいると思います。
そんな場所で、全て流され、何も持たずにただ命だけでも助かりたいという思いで逃げてきた人ばかりだと思います。

日々変化する日本の情報、
しかも良くなるどころかますます悪化していく。
原発も爆発し、放射能漏れの心配も出てきました。
放射能やそれに関する情報をよく知っているわけではないので、
どれだけ深刻なのかを語ることはできませんが、
ただただ日本のみんなが無事でいてくれること、
これ以上死者増えてほしくないと願うばかりです。

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