随分と書いていませんでした。
任国外旅行の話が最後まで終わってなかったので、ラスト書きます。
パラオでの5日間を過ごし、3月11日深夜の便でグアムへ向けて発ちました。
そして、乗換えて、マジュロへ向けて出発。
順調に旅の最後を迎えていた矢先、
グアム
↓
チューク島(ミクロネシア連邦)
↓
ポンペイ島(ミクロネシア連邦)
↓
コスラエ島(ミクロネシア連邦)
まで、到着し、最後の友だちコスラエ隊員とのお別れをしているときに、「日本で地震があったらしいという情報を聞きました。
それが、マーシャル時間の5時過ぎ、もうすぐ夕方6時になろうとしていたときでした。
日本でまた地震か・・・
最近頻繁だけど、こんな海外でも日本の地震情報ってわかるんだ、とそんな軽い気持ちでそのときはいました。
しかし、次のクワジェリン島(マーシャル諸島)に着いたときには、もっと大変なことになっていることに気付きます。
まず、マジュロへ行く全ての人はクワジェリンで降ろされました。
そして、入国受け付けをする部屋でしばらく待たされ、「日本で地震が起こり、太平洋に津波が来る危険性がある。ちょうどマジュロへ着く時間が津波到達時間のため、飛行機は急きょハワイへ直行することになる。」と言われました。
クワジェリンの空港関係者や米軍の人たちもどうしたらいいのか、といった感じでした。
マジュロへ向かう予定だった私たちもマジュロへ帰れないの?津波が来るの?なんで飛行機に乗せてくれないの?という苛立ちと不安を隠せず、空港関係者へ詰め寄ります。
そんな中、CNNのニュースに写る映像は、何が起こったのかまったくわからない日本の映像でした。
日本なのかさえもしばらくわからず、どこの国の話なのかと真剣に見ていた自分がいます。
仙台空港の屋上に数人の人が手を上にあげて、周りは海がまるで波打つように荒れているのかと思いました。
日本はどうしちゃったの・・・?
その気持ちをはっきりできないまま、クワジェリンで2泊3日、教会の施設で次の飛行機が来るまで過ごすことになりました。
この部屋に男女問わず、全員が詰め込まれました。
マーシャル人だけは空港から遠く離れたホテルへと移動。
もちろん共同トイレ、シャワーは翌日近くの家のものを借りることになりました。
そんな日本のことも心配だし、自分たちもどうなるかはっきりしない状態の不安だらけの中で、
1人の日本人の女性が翌日私たちに会いに来てくれました。
左の女性がクワジェリン基地内で暮らしているKayoさん。
右の女性はKayoさんのお友達で、グアムから同じに飛行機に乗っていました。
ちょうどKayoさんとKayoさんの旦那さんに会いにクワジェリンに来たそうです。
普段、自由に歩きまわることのできないクワジェリン内を歩きまわることができ、日本を心配する気持ちも一緒だったKayoさんに本当に助けられました。
30数年前のことけどマジュロの思い出・・・
返信削除ホテル・アジドリクに泊まった
やや空港寄りには日本名前のホテルもあった。
島の端に日本からの感謝の石碑があった。
当時の王様アマタ・カブア陛下と握手した
当時はトニー・デブラムさんが政府におられた。
この島出身のオットー・ポズナンスキーと仲良しだった。
彼は信託統治領政府海運局に勤務していて、日本の
造船所でMaicroシップの建造監督をしていた
…と色々思い出します
今も水は空港滑走路から?