2011年8月19日金曜日

ビキニ水爆実験

最近読んだ本
「ビキニ事件の表と裏」

著者の大石又七さんは、当時第五福竜丸の冷凍士として乗船してビキニ環礁の水爆実験で被爆した。

ビキニ水爆実験、第五福竜丸について、私が知ってることは、学校の歴史の授業で学んだ程度のことだ。
しかもほんの10分もないくらい。

私がマーシャル諸島で協力隊として訪れる機会をもらわなければ、ビキニのことを知ろうなんて思わなかったかもしれない。


大石さんたちは、刻々と変化する時代の中、被爆者として歩んできた人生をしっかりとこの本の中から今の日本、世界へ訴えている。
自分の体の中で起こる、想像できないような変化を受け止め、これまで頑張ってこられたことに言葉もない。
けど、こんなことが起こったことを日本人は知っていたほうがいいように思う。
今、目の前にある「原子力発電所の問題」を考える背景として、大事なことだと思う。


アメリカの核物理学者で、原爆計画や国防省の要職を歴任し、ビキニでは2回の核実験科学陣を式した、あのラルフ・E・ラップも言っている。
「第五福竜丸事件が起きなかったら、世界の人々は何も知らずに『惰眠』をむさぼっていたに違いない」と。
この事件が、いかに重要な役割を果たしたか、警告を発して地球汚染を食い止めたか、ビキニ事件は決して忘れてはいけない事件なのだ。
俺たち被爆者は、その後一貫して核兵器廃絶を訴えて続けてきている。
だが、科学者や政治家、哲学者という人たちはこれをよしとしているのだろうか?
「ビキニ事件の表と裏」より


本の最後はこう締めくくられています。
今も同じ課題を日本や世界は抱えているように思う。

2011年8月17日水曜日

任国外旅行へ行ってきました。 ~クワジェリンでのできごと~

随分と書いていませんでした。
任国外旅行の話が最後まで終わってなかったので、ラスト書きます。

パラオでの5日間を過ごし、3月11日深夜の便でグアムへ向けて発ちました。
そして、乗換えて、マジュロへ向けて出発。
順調に旅の最後を迎えていた矢先、
グアム
  ↓
チューク島(ミクロネシア連邦)
  ↓
ポンペイ島(ミクロネシア連邦)
  ↓
コスラエ島(ミクロネシア連邦)
まで、到着し、最後の友だちコスラエ隊員とのお別れをしているときに、「日本で地震があったらしいという情報を聞きました。
それが、マーシャル時間の5時過ぎ、もうすぐ夕方6時になろうとしていたときでした。

日本でまた地震か・・・
最近頻繁だけど、こんな海外でも日本の地震情報ってわかるんだ、とそんな軽い気持ちでそのときはいました。

しかし、次のクワジェリン島(マーシャル諸島)に着いたときには、もっと大変なことになっていることに気付きます。
まず、マジュロへ行く全ての人はクワジェリンで降ろされました。
そして、入国受け付けをする部屋でしばらく待たされ、「日本で地震が起こり、太平洋に津波が来る危険性がある。ちょうどマジュロへ着く時間が津波到達時間のため、飛行機は急きょハワイへ直行することになる。」と言われました。
クワジェリンの空港関係者や米軍の人たちもどうしたらいいのか、といった感じでした。
マジュロへ向かう予定だった私たちもマジュロへ帰れないの?津波が来るの?なんで飛行機に乗せてくれないの?という苛立ちと不安を隠せず、空港関係者へ詰め寄ります。
そんな中、CNNのニュースに写る映像は、何が起こったのかまったくわからない日本の映像でした。
日本なのかさえもしばらくわからず、どこの国の話なのかと真剣に見ていた自分がいます。
仙台空港の屋上に数人の人が手を上にあげて、周りは海がまるで波打つように荒れているのかと思いました。
日本はどうしちゃったの・・・?



その気持ちをはっきりできないまま、クワジェリンで2泊3日、教会の施設で次の飛行機が来るまで過ごすことになりました。



この部屋に男女問わず、全員が詰め込まれました。
マーシャル人だけは空港から遠く離れたホテルへと移動。
もちろん共同トイレ、シャワーは翌日近くの家のものを借りることになりました。

そんな日本のことも心配だし、自分たちもどうなるかはっきりしない状態の不安だらけの中で、
1人の日本人の女性が翌日私たちに会いに来てくれました。


左の女性がクワジェリン基地内で暮らしているKayoさん。
右の女性はKayoさんのお友達で、グアムから同じに飛行機に乗っていました。
ちょうどKayoさんとKayoさんの旦那さんに会いにクワジェリンに来たそうです。

普段、自由に歩きまわることのできないクワジェリン内を歩きまわることができ、日本を心配する気持ちも一緒だったKayoさんに本当に助けられました。